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【キャッシュレス最前線 #05】路線バスで始まった顔認証決済。その先に広がる「データで街をつくる」時代

事前に顔写真とクレジットカードを登録しておけば、バスに乗車する際に端末へ顔を向けるだけで決済が完了する──。東京都が2026年2月から関東バスの一部路線で開始した「顔認証キャッシュレス決済」の実証実験は、日常の移動手段に新たな可能性をもたらしている。

財布もスマートフォンも取り出す必要がない「手ぶら移動」の実現は、利用者にとっての圧倒的な利便性向上にとどまらず、公共交通事業者が抱える深刻な課題を解決する糸口としても大きな期待が集まっている。

だがこの実証実験の意義は、それだけにとどまらない。その先には、次世代の交通向けの運賃収受・チケッティング基盤「ABT(アカウントベースドチケッティング)」が実現する、新しい移動と都市の姿がある。本実証を推進する、株式会社三菱総合研究所の村山隆芳氏に話を聞いた。


<Speakers>
株式会社三菱総合研究所 インフラ・都市政策本部 次世代インフラ事業推進グループ 主席研究員 村山 隆芳

(所属・肩書は公開時点)


路線バス業界が直面する「人材不足」と「最適ネットワーク」の模索

私たちの生活に欠かせない「地域の足」である路線バス。しかし現在、バス業界全体がかつてないほどの厳しい局面に立たされている。いわゆる「2024年問題」に代表される時間外労働の上限規制適用や、慢性的な働き手不足により、深刻な乗務員不足に直面しているのだ。

「どのバス会社にとっても『いかにして人材を集めるか』というテーマが非常に重くのしかかっています。一方で路線バスは公共の交通機関であり、利益が出ない路線を簡単に減便・廃止できるわけではありません」と村山氏は語る。人材確保という経営的な視点と、公共性の維持という社会的な役割。この最適なバランスをどう見極めるかが、最も大変なポイントだという。

この課題に対する「一足飛びの解決策」は存在しない。乗務員の労働条件や待遇を向上させるためには、運行にかかるそれ以外のコストをいかに抑えられるかが問われる。しかし村山氏は、それ以上に根本的な視点の転換が必要だと指摘する。

「これまで通り『今のネットワークを維持する』こと自体が、果たして地域にとって本当に最適なのかという議論が必要です。データに基づいて正しく精緻に状況を把握し、どこに厚くバスのネットワークを敷くべきか、またはオンデマンド交通やシェアモビリティで代替すべきか。交通全体での『最適化』を図っていく必要があるのです」

三菱総合研究所は、こうした最適化に向けたファーストステップとして、バス事業者の負担を極力抑えながら実際の人流データなどを分析・対比し、自治体や地域の交通事業者とともに「最適な交通ネットワークの絵」を描く支援を行っている。

東京都の顔認証実証実験が目指す「利便性向上」と「乗務員負荷の軽減」

前述の業界全体の課題は、東京都も例外ではない。2026年2月2日から3月17日まで、関東バスの「荻51系統」で実施された「顔認証キャッシュレス決済」の実証実験について、村山氏はその背景をこう語る。

「東京都としても、都民に対して生活圏としての価値を維持していく必要がある中で、乗務員不足がこのまま進めばいずれは減便やネットワークの削減につながりかねないという危機感のもと、いかに乗務員の負荷を減らし、人材を定着させるかという観点でさまざまな打開策が探られています。今回の顔認証決済の実証実験も、そうした取り組みのうちの一つです」

乗務員の負荷となっている大きな要因の一つに、煩雑な運賃収受業務がある。例えば障がいを持つ利用者がバスに乗る場合、現状では証明書の提示、乗務員による目視確認、システム側での割引適用ボタンの操作を経てから、現金やICカードで支払ってもらうという多くの手順が発生する。

生体認証が普及すれば、事前に登録するIDに障害者手帳の情報を紐付けておくことで、顔認証をするだけで証明も割引適用も決済も一括で完了する。「乗務員にとって最も大きなプレッシャーの一つは定時運行です。乗降にかかる時間を少しでも短縮し、目視チェックやボタン操作の負担を減らせる意義は非常に大きいです」と村山氏は強調する。

また、バス事業者にとって、現金決済の維持コストは経営を圧迫する要因の一つとなっている。運賃箱の維持・管理コストの約8割は、現金処理のために費やされているという見方もある。東京都内の路線バスではすでに現金利用率が10%を切っているにもかかわらず、その少数のために多大なハードウェアコストと、営業所での現金集計という見えない業務負担が発生しているのだ。

もちろん、一般の利用者にとってもメリットは大きい。小さな子ども連れで荷物を抱えている保護者など、カバンやポケットからスマートフォンやICカードを取り出す余裕がない場合でも、顔認証があれば楽にバスを利用できる。

東京都が主体となり三菱総合研究所に委託して実施された本実証は、荻51系統(荻窪駅南口〜シャレール荻窪)の全便を対象に、大人の普通運賃に限定して行われた。定期券利用者や小人・障がい者向けの割引運賃は対象外とし、シンプルな条件下でシステムの有効性と利便性を検証する狙いだ。

スピードが命の交通系決済。顔認証システムの裏側にある工夫

端末に顔を向けるだけで決済が完了する──その体験の裏側には、交通系ならではの技術的なハードルがある。処理スピードだ。朝夕のラッシュアワーでは、次々と乗り込んでくる乗客を滞りなく乗車させなければならない。一般的な交通系ICカードはわずか約0.2秒で処理を完了する。顔認証でこのスピードにどう迫るのか。

「今回の仕組みでは、事前にアプリからご登録いただいた顔写真から『特徴量(個人を識別するための個人固有の特徴)』を抽出し、それをサーバーに保管するだけでなく、登録から数分後にはバス車内に設置された顔認証機(エッジ端末)へすべてダウンロードする方式を採用しています。これにより、通信ラグをなくし、端末側で即座に判断・決済処理を行うことが可能になります」

実際の運用では、意図しない決済を防ぐための工夫も施されている。バスの車内が混雑すると、顔認証機のすぐ目の前に人が立つことになる。顔が映るだけで決済されてしまえば、その人が立っている間中、何度も認証し続けてしまうリスクがある。それを防ぐため、「決済を確定させるためのタッチ操作」を挟む仕様にしているという。

さらに、カメラの設置位置の微調整も欠かせない。大人から子ども、車椅子利用者まで、さまざまな身長の人がスムーズに認証できるよう、低い位置にカメラを設置し、斜め上を見上げるような角度に調整するなど、現場での試行錯誤が繰り返されている。

CBTからABTへ。交通系決済が迎えるパラダイムシフト

今回の実証では顔認証による決済が取り入れられたが、実はこれは村山氏たちが描く構想のほんの一端にすぎない。目指すのは、その基盤である「ABT(アカウントベースドチケッティング)」の普及だ。

現在の交通系ICカードは「CBT(カードベースドチケッティング)」と呼ばれる方式を採用している。ICカードそのものの中に定期券の情報やチャージ残高、利用履歴などのデータがすべて書き込まれており、運賃箱にタッチした瞬間に機械がカードの中身を読み取り、計算して、新しい残高をその場でカードへ書き戻している。

一方、顔認証の場合、人の顔そのものにデータを書き込むことは当然できない。顔はあくまで「誰であるかを示すID」にすぎず、IDに紐づく残高や定期券情報は、すべてクラウド上のサーバーで管理する必要がある。このクラウド主導の仕組みがABTだ。

ABTが普及すれば、決済手段(媒体)はもはや何でもよくなる。顔認証はもちろん、QRコード、安価なICタグ、さらにはマイナンバーカードも決済用IDとして活用できるようになる。

「東京ではICカードが当たり前ですが、地方に行くとそもそもICカードのカルチャーが根付いていない地域も多くあります。そうした地域でキャッシュレス化を進めるなら、すでに皆が持っているマイナンバーカードをIDとして活用し、裏側のABTシステムで残高管理をするという考え方も、有力な選択肢の一つです。現金を減らすためには、顔認証やマイナンバーカードなど多様な手法を組み合わせる必要があり、それを根底で支えるのがABTという仕組みなのです」

ABTはさらに、全国の路線バスで一般的な「距離別運賃」の決済をスムーズにする鍵でもある。東京都内のような均一運賃であれば乗車時に一定額を引き落とすだけで済むが、地方に多い「後ろ乗り・前降り」の整理券方式では、乗車時にIDで乗車地点を記録し、降車時に再び認証して距離に応じた運賃をクラウド上の残高から引き落とすという処理が必要になる。距離別運賃の環境下で生体認証を導入するには、ABTの仕組みが欠かせない。

移動データ×消費データが描く、次世代の都市デザイン

東京都からの委託決定から開始まで1ヶ月強というタイトなスケジュールで進行した、今回の実証実験。その裏側を支えたのは、決済基盤を担うDGフィナンシャルテクノロジー(DGFT)だ。実証全体の立ち上げにあたっては、厳しい開発・実装スケジュールはもとより、生体認証基盤との接続や決済処理の連携など、高度な技術要件への対応が求められた。DGFTはこれらの課題に対し、これまでの知見を活かして取り組んだ。

「今回のプロジェクトは本当に時間がなく、厳しいタイムラインの中での進行でした。その中でDGFTさまには、最初の打ち合わせから非常にクイックかつ柔軟に対応していただきました。『ここまでにこれをクリアしなければならない』という課題を逆算して一緒に乗り越えてもらい、非常にありがたかったです」

三菱総合研究所はこれまでにも、ICカードやマイナンバーカードを用いたABTの実証実験を重ねてきた。今回の顔認証もその延長線上にある。ABTを基盤に多様な交通機関が共通のIDでシームレスにつながる未来は、MaaSの進化とともにすぐそこまで迫っている。

その先にある究極の目的は、単なる移動の効率化にとどまらない。交通の枠を超えた「データ活用による都市計画」だ。

さまざまな交通機関を一つのIDで紐付けることで、「誰が、どこからどこまで移動したか」が可視化される。しかし村山氏は、真に価値のあるデータ利活用のためには、移動履歴を集めるだけでは不十分だと考えている。

「クレジットカード会社が保有する購買データだけではどう移動してきたかはわからず、交通系データだけではその後の消費行動が見えません。『その先でどこに行き、何をしたのか』という情報までつなげて、利用者にベネフィットを提供しながらエコシステムを構築していく必要があります。私たちが目指しているのは、単一の事業者で完結するものではなく、地域という一つの塊の中で人がどう動くかを分析し、自治体や交通事業者、商業施設運営事業者など多様な業種とともに、移動と消費を一体で捉えた『都市計画そのものをデザイン』していくことです」

テクノロジーの進化が生み出す「手ぶら移動」は、単なる決済手段のアップデートではない。誰もが使いやすい公共交通を実現し、事業者の持続可能性を高め、そして都市全体をデータドリブンで最適化していく──その壮大なプロジェクトの、第一歩なのだ。

株式会社DGフィナンシャルテクノロジー

日本全国の加盟店の110万を超える対面および非対面拠点に対して、クレジットカード、QRコード等の多様なキャッシュレス決済ソリューションを提供している。

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